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パキスタンの歴史 導入 パキスタンは1947年8月14日に地図に登場しました。しかし、歴史ははるか昔から続いています。パキスタンは711年にラジャ・ダヒール王国が海賊に滅ぼされた時の難民として避難してきたムハンマド・ビン・カシムが南アジアにイスラム教を伝えて以来、繰り返されてきた故郷の分裂が絶頂を迎えた時にイスラム教徒の手によって建てられました。 イスラム教の伝播は、歴史的な独立性をこの地位にもたらしただけでなく、パキスタンの国境を築く、その力をもたらしました。 石器時代 人類の発祥のころ、世界各地で人類の祖先と考えられている生物の化石が発見されています。そのうちの一つに、ラーワルピンディー近郊、ポトハー郡、ソーン谷で、50万年前の人骨と考えられている人骨が八卦されました。この周りの地域では他にこれほど完成した人骨の化石が発見されてはいませんが、ソーン谷には天然石の道具が見つかっており、間氷河期の間に人類が苦労をして旅を続けてきた跡が残されています。このころの人類の生態を知るために、ソーン谷で発見された人類の跡はわかりやすい指標となっており、この周辺の文化はソーン文化と呼ばれています。紀元前3000年バローチスターンのいくつかの谷に足跡などが発見されており、小さな村が作られていたと考えられています。この谷は、後にこの地域に世界4大文明の一つができるあけぼのとなりました。この地では、石器時代の人類後がさらに見つかり続けています。 これらの先史時代の人類は、定住をはじめ、農業と狩猟をしました。谷とその周囲の平野では牧畜、大麦やその他の作物を作りました。 赤・黄土器時代 いくつかの先史時代の洞窟には、彼らの生活痕が残っています。層をはがしていくと、これらには二つの時代があります。赤土器時代と黄土器時代の二つの時代に分けられると考えられています。この時代でもっとも有名なものは、クエッタを含む北バローチスターンのゾーブ文化、シンド州と南バローチスターン州のアムリ・ナル、クリ文化として知られています。アムリ・ナルの村や町は防御用の石の壁と砦が見つかっており、家は石の土台で作られています。ナルでは、広大な墓地に100を超えるお墓が作られていたものが発見されています。これらの文化の重要な点は、アムリとその周りの地域はインダス文明発祥よりも前の地層から見つかっており、ナルのステアタイト石と銅器、いくつかのタイプの土器はインダス文明と重なります。そのため、これらの先史文明の文化はインダス文明の発祥のルーツになっているのではないかと考えられています。 先史時代の遺跡の一つであるシンド州コート・デイジー地域は、インダス文明発祥のころ300−500年間の歴史の生成について数多くの情報を残しています。紀元前2800年から2500年にかけて、新しい文化のいくつかがハラッパー文化の前段階としてこの地域で発見されています。 先ハラッパー文化 アリヤン文化 ガンダーラ文化 ダー・スワット地域でのガンダーラ朝の発見は、昔から謎とされていた紀元前1500頃のインダス文明の終わりから、紀元前6世紀のアケメネス朝の間のパキスタンの文化歴史に、光を与えました。ヒンデュー神話とサンスクリット文学伝統はインダス文明とアリヤン文化の滅亡と関係があるとは考えられていましたが、その間を埋める文化については謎とされていました。ガンダーラ朝は、パキスタンの文化遺産の中で、2つの時代に関係をしています。一つはブロンズ製器時代であり、もう一つは鉄器時代です。これらは、特殊な起伏の激しい地域にすんだガンダーラ朝の墓にその証拠を認めることができます。この文化はインダス文明とは違う文化を持ち、バローチスターンの村とは一定の関連を見つけることができます。この当時の発見された遺跡を調べると、アリヤン都市の紀元前1500年から600年ごろのどこかの時点でこのガンダーラの地域に移住してきて生成されたと考えられています。仏陀が彼の教えを広めはじめ、南アジア大陸にも伝播をしてきました。また、この時期に、ダリウス一世がイランから進出し、シンド州とパンジャブ州の地域を自分の帝国の20番目と地域として編入しました。 このダリウス長と紀元前3世紀におこったマウリヤ朝にはとても大きな共通点があります。カウティヤのアースシャストラがペルシアの強い影響をパキスタンに与えていたころ、マケドニアのアレクサンダー大王が紀元前330年にダリウス3世を滅ぼして、ビーズ川ぞいにまた影響を与えるようになりました。しかし、ギリシャの影響はマウリヤ朝の出現に対してはある程度の影響しか与えることはできませんでした。マウリヤ朝チャンドラグプタ帝の孫にあたるアショーカ帝が現在の北パンジャブに当たる地域にインダス平野を中心とした国家を作りました。その他の地域はインダス河にまたがる広大な地域が手つかずでした。これらの現在パキスタン領となる地域は紀元4世紀におこったグプタ朝にも征服をされず、紀元13世紀におこったデリー・スルタン朝までの間平和な時期をすごしました。 ガンダーラ朝の美術は紀元1世紀から5世紀までの500年に現在のペシャワール付近のスワット、ブネール、バジャール地域のパキスタン文化の中でも最も貴重なものの一つです。この美術は文化革命からも守られました。インド、仏教、グレコ・ローマ風の特徴的な彫刻、美術で、ガンダーラ美術はその当初からペシャワールからインダス谷までにわたるシルクロードを治めていたクシャン朝カニシュカ帝の庇護を受けてきました。 イスラム教の伝播 ウルドゥ語:パキスタンの公式言語 イスラム教の連帯感 英国の勃興とイスラム教徒の受け入れ 宗教教育 教育の再生 イスラム教徒は、西洋式の教育や政府機関から南アジアを守っていると考えていましたが、もう一つの民、ヒンドゥ教徒は、そのようには考えておらず、新しい法律を無抵抗に受け入れました。彼らは西洋式教育を受け、新しい文化とこれまでイスラム教徒が担ってきた地位を取り入れていきました。もしこの状況が続くならば、イスラム教徒にとって重大な損害が下ることは明らかでした。差し迫っている危機に対してさいしょに声をあげたのは、シー・シェド・アフマド・カーン(1817年ー1889)の1857年の声明でした。彼はイギリスとイスラム教徒の間を必死になってとりもちました。彼の持論は、西洋教育と知識の受け入れが、イスラム教徒を安全にする唯一の道だと考えていました。彼はいくつかのステップを踏みながら、目的を達成しようと頑張りました。彼はアリガルーに大学を建て、西洋教育の受け入れを進めました。アングロームハンマドに教育を平等に受けさせるため、彼は1886年に教育のための会議を自らがスポンサーとなって行いました。これにより、彼はイスラム教徒に、西洋教育と社会がイスラム教徒の知性を広げるために助けを与えていることを理解してもらおうとしました。これに近い運動の一つは、ナワブ・アドブル・ラティフ(1828年ー1893年)がベンガルで開いたムハンマド・文学ソサエティです。シー・シェド・アフマド・カーン氏の努力は、アリガール運動へと進化を遂げてゆきました。そしてこの運動は南アジアの全域にさまざまな跡を残してゆきました。これらの働きによr、この大陸でソサエティが開かれ、イスラム教の教育を参考とした教育が育ってゆきました。 シー・シェド・アフマド・カーン氏は英国の統治に対する反抗とも取られかねないイスラム教徒の他の政治組織との断絶の方針は嫌っていました。彼はまた、ヒンデュー教徒とイスラム教徒が一緒になって危険な冒険騒ぎを起こすことも嫌っていました。彼は1860年代にヒンデュー語を話す人々がウルデュー語を話す人たちにヒンデュー語を教え、言語を統一しようとしていた動きに幻滅をしていました。そのため、彼は1885年に設立されたインド国民議会にも反対をしました。そして、イスラム教徒に、自分たちの組織を持つべきであるとの意見を発信し続けました。彼と同時代に生きた偉大んイスラム法学者、シェド・アミール・アリ氏(1849年ー1928年)は、彼の議会に対する考え方を示しましたが、彼はイスラム教徒が独自の政治組織を持つことには反対をしませんでした。事実、彼は中央ムハンマド国民委員会と呼ばれるイスラム教徒の最初の政治組織を築きました。その委員になれる人は限定されましたが、南アジアの地で50もの支部を作り、イスラム教徒のための実務的な教育や政治活動にはげみました。しかし、これらの働きは19世紀が終わると同時ごろに途切れてしまいました。 イスラム協会 20世紀が始まるころ、イスラム教徒に、独自の政治組織を持つ必要があると感じさせるいくつかの出来事がありました。そのため、1906年10月に、35のイスラム教徒の指導者が英国総督に会い、宗派ごとの分離選挙の実施を要請しました。3ヵ月後、全インドムスリム連盟がナワブ・サリムラー・カーン氏によって、イスラム教徒の政治的権利と活動の擁護のためにダーカで組織されました。英国はムスリム協会が全インドを代表する政党と位置づけ、1909年んお選挙において宗派ごとの分離選挙を認めました。ヒンドゥ教・イスラム教統一組織の試みにより、二つの宗派のコミュニティが別々の道をたどっていることが鮮明に明らかになり、全インドの指導者の間で、大きく深い問題を残しました。彼らは議会とイスラム協会を同じテーブルにつけることに奮闘をしました。建国の父、ムハンマド・アリ・ジンナー氏(1876年ー1948年)がイスラム協会を率いていました。ベンガル地方の分割の取り消しと、ヨーロッパのオスマン・トルコ帝国と北アフリカに対する高圧的な態度がイスラム教徒の心を和らげ、イスラム教徒はイギリス支配からのがれるためにヒンデュー教徒と連携をすることを受け入れました。 ムスリム連盟の議会での親善活動が功を奏し、1916年のラックーナウ議論は受け入れられ、共同の政治方針がきめられました。議会では、宗派ごとの分離選挙が認められ、イスラム教徒は、自分の宗派の人々に対して「待ちの時代」と呼ばれる時期に入りました。イスラム教徒はベンガルとパンジャブでの少数派としての地位に甘んじることを受け入れました。ラックーナウ条約の後に、ヒンデュー教徒とイスラム教徒は年一回の会議を同じ町で開き、それぞれの直面している問題に対して一緒に解決の道を探ることに合意をしました。 キラファト運動 ヒンデュー教・イスラム教統一統一組織の絶頂はキラファトでの無政府運動の際に迎えました。イスラム教徒はマウラナ・ムハンマド・アリ氏と、マウラナ・シャウカット・アリ氏の二人の兄弟に率いられ、第一次世界大戦後のオスマン・トルコ帝国保護のための歴史的なキラファト運動に参加をしました。モハンダス・カラムチャンド・ガンディー氏(1869年ー1948年)はサワラージ(自治)とキラファトを結びつけ、ヒンデュー教徒にも参加wお呼びかけました。そののちに続く運動は、最初の田舎での国民の運動でした。 この運動は失敗をしましたが、南アジアでのイスラム教徒の存在を誇示するには十分な衝撃を与えることができました。彼らは長い時間をかけてイスラム教の問題を利害の一致のために解決をしてきていました。また、この運動は、イスラム教徒の指導者に、国民をまとめ、運動する手法をも教えることになりました。この経験は、後にイスラム教徒がパキスタン建国の運動を興すときに大変役に立ちました。キラファト運動の挫折はヒンドゥ教徒とイスラム教徒の間にしばらくの間かたいしこりを残しました。ヒンドゥ教徒は反イスラム組織を2つ、シューディとサンガサンで立ち上げました。これまでは、イスラム教徒をヒンドゥ教に改宗させるための運動をしてきていたのですが、このころから、ヒンドゥ教徒が主権を持つ国を建国するために運動をしているようになっていきました。その報復として、イスラム教徒はタブリーとタンジンでおこったシューディとサンガサンの反対運動に資金を提供しました。1920年代、共同の闘争は影をひそめました。いくつかのヒンドゥ教・イスラム教統一組織は問題の解決のために会議を持ちましたが、この二つの宗派の問題を完全に解決することは不可能のように見えました。 イスラム教徒の安全への願い サイモン委員会 アラーマ・ムハンマド・イクバル 数人の指導者とと知識人は、ヒンデュー教徒とイスラム教徒の違いを知った上で、宗派ごとに別の国を作った方がよいとの見解を見解を持っていました。しかしながら、この見解はアラーマ・ムハンマド・イクバル氏(1877年ー1938年)が1930年に全インドムスリム連盟のアラハバードでの会議の冒頭で発言をするまで公に語られることはありませんでした。彼は、南アジアのイスラム教徒の健全な発展のためには、最低でも北西でのイスラム教徒が多数を占める地域において、自治を獲得する必要があるとの意見を発表しました。後、建国の父、ムハンマド・アリ・ジンナー氏は、北西インドのイスラム教徒の地域おいて同じ意見を持つようになりました3年後、ケンブリッジ大学で学んでいた数人の生徒がチョードリー・レーマット・アリ氏の指示のもとに、パンフレットを印刷しました。その中で、彼らはイスラム教徒が多数を占める土地をもじり、パキスタンの名前を付けました。この考えは、当初、イスラム教徒の間でもあまり受け入れられませんでしたが、10年かけて、イスラム教徒が真の自治を求め始めた時に再び注目をあびるようになりました。 建国の父、ムハンマド・アリ・ジンナー 1930年から32年にかけて、ロンドンで行われた円卓会議の席上で、インドの憲法に関する問題が議論されました。ヒンデュー教徒とイスラム教徒の指導者は、この会議に招待をされ、議論をしましたが、公式の共同声明を発表することはできませんでした。そして、英国政府は「共同体賞」の設置を発表し、1935年のインド政府が執り行いました。この議会の前の選挙において、およそ5年間イギリスで活動していたムハンマド・アリ・ジンナー氏が1934年に帰国をし、時々活動を休止せざるをえなくなっていた全インドムスリム協会を再編しました。ムスリム協会は議会のイスラム教徒枠のなかで、これまではその組織のもろさから多数を占めることができませんでしたので、インド国民議会のイスラム教徒に対する扱いはひどいものでした。選挙後、議長は高慢になり、威張り散らすようになりました。そのひとつの例が、地方組織において、イスラム教徒と連合して政府を作ることに難色を示したことでした。彼はイスラム教徒に対して、地域議会に参加をするのではなく、国民議会に一本化するようにもとめてきました。1937年の選挙後のもう一つの重要な動きは、イスラム教徒の何人かが、ムスリム協会に参加する以上に国民議会に参加をすることを呼びかけるようになったことでした。その運動の立役者の一人、ジャワハラール・ネルーは、インドには英国と国民議会の二つしか力のある組織はないと言いましたが、これらはイスラム教徒の心を変えることはできませんでした。 ムハンマド・アリ・ジンナー氏は、南アジアに眠る第三の勢力であるイスラム教徒の力に言及をし、全インドムスリム協会は、かれの天性の指導力とともに、強い組織を作り上げてゆき、イスラム教徒を一つにまとめてゆきました。 イスラム教徒の故郷の分離 1930年代は、イスラム教徒のアイデンティティの崩壊への認識と、それぞれの分離した地域への分割の不安が巻き起こった時期でした。このイスラム教徒に対する問題が起こった重要な要素の一つは、1937年から1939年にわたって行われたイスラム教徒の少数派に対する国民議会の法律です。国民議会の政策は、これらの地域に住んでいたイスラム教徒をいたく傷つけました。それぞれの地域はイスラム教徒が少数派となるように工作が施され、イスラム教徒はそれぞれの地域で苦渋の生活を営むことになりました。イスラム教徒はこの時点にいたって、それぞれの地域での安全を求めるだけでなく、イスラム教徒の完全な自治を求めるようになりました。1937年から1939年にわたって、何人かのイスラム教徒の指導者と知識人はアラーマ・イクバル氏の考えを発展させ、二国論を作り上げました。 パキスタンという選択 全インドムスリム連盟はこれらの提案を吟味し、イスラム教徒の、イスラム教徒が多数を占める地域での自分自身による自治を求める声の大きさも考慮し、最終的に、1940年3月23日、全インドムスリム連盟の歴史的な会合をラホールで開くことになりました。この会議での解決策はパキスタン独立案でした。パキスタンへの要求は、イスラム教徒の間で広がりました。この会議はイスラム教徒に過去のイスラム教徒の歴史と約束された将来への希望を思い起こさせました。彼らは即座にこの決議に沿って活動を開始し始めました。 クリップ提案 英国政府は1942年、スタッフォード・クリップ氏を通じて、パキスタンの独立の要求を第二次世界大戦での協力次第で受け入れることを表明しました。国民議会と全インドムスリム協会は、それぞれ別個の理由からこの勧告を拒否しました。分離独立案は支配を分けるだけのことでしたが、最終的には約束が含まれていました。交渉失敗の後、国民議会議長C・ラジュゴパラチャリア氏は、イスラム教徒の完全な独立を受け入れるほかに道はないことをインド国民議会の小委員会で発表しました。この案は否決されましたが、1944年のジンナー・ガンディー会議での基礎となりました。 パキスタンへの動き 第二次世界大戦を通じて、イスラム教徒の間でパキスタンの構想はより現実味を帯びるようになりました。 男性、女性、生徒、ウラマ、ビジネスマン 全インドムスリム連盟の下で、それぞれの組織が作られました。政党支部が南アジアの各地に作られるようになりました。パンフレット、書籍、雑誌、新聞などの文芸が発展し、パキスタンへの期待を宣告各地に配信してゆきました。全インドムスリム連盟とパキスタン独立への期待はますます支援をうけながら広まり、1945年、ワーベル総督によるシムラ会議が失敗に終わった時、試練を受けました。選挙が行われ、それぞれの政党の強さが図られました。全インドムスリム連盟の選挙運動はパキスタン独立への要求をもとに行われました。イスラム教徒のコミュニティは、思いがけない形で答えました。議会でのいくつかのイスラム教徒枠の政党が連合し、ムスリム連盟に反抗しました。しかし、全インドムスリム連盟は中央議会の30席と地方議会で議席を獲得しました。選挙後、1946年4月8日と9日に、全インドムスリム連盟は新しく選出された全議員をデリーに集めて議会を開きました。この議会には、すべての南アジアのイスラム教徒の代議士が参加し、ベンガル地方の首相であるフサイン・シャヒード・スラワルディ氏がパキスタン分離独立要求を繰り返し伝えました。, 政府の計画 1946年初め、英国政府は上院議員団を南アジアに送り込み、この問題に対する対処をしました。この議員団はいくつかの政党と交渉をすることができましたが、すべての政党が合意する案を作ることはできませんでした。最終的に、上院議員団はこの地域を3つに分割する案を発表しました。これは、イスラム教徒が多数を占める二つの地域と、中央のヒンデュー教徒が多数を占める地域に分け、緩やかな条約により、イスラム教徒の自由な往来を認めるというものでした。ムスリム協会はこの提案を受け入れることを決めましたが、将来的にはこの地域が離れすぎないようにとの注文を付けました。全インド国民会議も受け入れを決議しましたが、じきにこの問題点を指摘し、議会指導者はこの受け入れにかくれて反対の意を示し始めました。この動きは全インドムスリム協会を刺激し、8月16日には、提案の受け入れの前に「直接行動の日」を設け、イスラム教徒のパキスタンに対する期待の強さを示し始めました。 分離独立 1946年10月、政府のひながたがつくられました。ムスリム協会は政府のために戦ってくれることを期待し、リアクァット・アリ・カーン将軍秘書を初代指導者に指名しました。しばらくして、準備政府の内部の問題と国民議会との解決のためには、パキスタンの国際社会の認定が必要不可欠であることが分かりました。英国政府は、1946年12月の上院議員団提案に固執していましたが、最終的にインドの分離独立に合意をしました。最後のインド総督、マウントバッテン卿は、権限の移譲のための最終的な交渉を担いました。 政府首班と政党間の協議が重ねられ、パキスタンへの権限の移譲が勧められました。そして最終的に、英国政府は、1947年6月3日、最後の仕事が終了したことを宣言しました。 パキスタン国の形成 国民議会とムスリム協会が提案に賛成をしたことにより、イスラム教徒が多数を占める二つの地域、ベンガルとパンジャブが独立をしました。西パンジャブと東ベンガル、シンド、バローチスターンのクエッタ議会、パキスタンに参加を表明したシャヒ・ジルガが集まりました。北西辺境とアッサム州シルヘットが後に参加をしました。そして、最終的に1947年8月14日。パキスタン国は世界地図上にその姿を表しました。 |
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